しなもんの永眠に寄せて

知っている人は知っているし、知らない人は全く知らない話なのだが、はてなのマスコットキャラクターであったしなもんが永眠したそうだ。

さようなら。ありがとう。 -しなもん日記

僕は2002年からはてなにお世話になっており、無論公式ブログであった「しなもん日記」も結構頻繁に見ていたので、自分でも驚くくらいがっくりと心を落としてしまった。

今晩、しなもんへ手向ける言葉を色々と考えたけど、それよりも今は無き僕のブログに寄稿した、僕の実家にいた犬の死に寄せて手向けた文書を転載してみようと思う。

動物に限らず、生きとし生ける者、必ずお別れの時は来るのだが、人間の良き伴侶である犬達の死に際して人は、或いは人が死ぬのと同じ程度に、真摯に向き合ってしまう。
それ程に良きパートナーとなってくれる犬達に感謝しなくてはね。

しなもんよ、安らかに。

___以下、転載文___
見送る夜(2005年7月8日の日記)

七夕の夜、陽が落ちて暫く経った頃、実家で飼っていた犬が静かに息を引き取りました。
春先から具合が悪く、一時期は立てなくなっていたのですが、それでもその日は、父親の誘いに乗って散歩にも出掛けたそうです。
 
僕が高校二年生の夏にうちにやってきたその犬は、思えば実に僕の半生を供に生きてきた計算になります。
 
犬を飼う殆どの家庭がそうであるように、その犬は我が家においても出来の悪い末っ子のように寵愛されて過ごしていました。
 
臆病なくせに負けん気が強く、いつも僕に喧嘩を売っていたあいつ。
それでも二人きりになると寂しがり、布団に入ってきたあいつ。
女のコが大好きで、女のコを家に連れてくるたびにまとわりつき「飼い主にそっくり・・・」と言われていたあいつ。
僕の子供の事を疎ましく思いながらも、決して威嚇しようとしなかったあいつ。
風呂嫌いで、シャンプーをするとうるさい位泣きじゃくっていたあいつ。
散歩が大好きで、原っぱを元気に走り回っていたあいつ。
目を閉じれば、いろいろな思い出が浮かんできます。
 
会社の帰りに、あいつが大好きだったちくわを買い、逢いに行きました。居間の真ん中にタオルが敷かれた上に、静かに横たえられたあいつは、本当に本当に寝ているようでした。
今にも起き出して「お、兄ちゃんよく来たな。喧嘩しようぜ」
なんて尻尾を振りそうにも見えました。
 
何か声を掛けてやろうとしたのですが、「なんだ、寝てるじゃん」と言ってみた瞬間に胸がつかえてしまい、その後は両親の言葉に「うん、うん」と頷く事しか出来なくなってしまいました。
 
以下は、母親から来た訃報のメールに対して僕が返した返答です。
ありがとう。
そして、ゆっくりおやすみ。
またいつか、喧嘩をしような。

トーマスはうちに貰われて来て幸せだったと思うよ。
 
最近思うのですが、生きる事の意味があるとすれば、それはこれから先の将来にあるのではなくて、今まで積み重ねて来たものの中にあるのではないでしょうか?
多分僕たちは、将来をより身のあるものにするためにではなく、今まで生きて関わって来た命に恥じる事のないよう頑張っているのだと思うのです。
 
そういう意味では、僕たちはどうしようもなく繋がっているのです。
おそらくは命が失われた後も。
 
失う悲しみはフィジカルな感情です。
理屈じゃ納得させる事は出来ません(その証拠に、こんな事を言った僕が今実際に泣いています)。
でも、それであいつとの間に起こった全ての記憶が失われてしまうわけではありません。
トーマスはただ在るべき場所に還って行っただけです。たぶん。
これから先、トーマスを生き続けさせられるのは、僕たちの思いに掛っています。
 
トーマスを忘れない事。
それが僕たちに出来る唯一の供養だと思うのです。