ちゃんと覚えているために

僕に限ったことではないのだろうが、記憶座に納まる情報量は極めて限定的で、しばしばたいせつなことを忘れる。忘れるべきではなかったことを忘れる。
 
忘れないために、ちゃんと覚えているために、結構な苦労も払っている。手帳を購入したのもその一環だし、机の上はいつでも付箋紙でいっぱいになっている。電子スケジューラには一通り予定を入れるし、その情報もなるべく共用するように心掛けている。それでも忘れるが、こういう日々の細かい努力が、何とか社会人としての自分を作り上げている。
 
では、そういったものに遺すことのできない「忘れたくないこと」は、どうやって覚えていれば良いのだろうか。何月何日の何時に何をした、と簡単には言うことができないもの。たとえば「おもいで」とか、たとえば「おもい」とか、そういったものをどうやって覚えていれば良いのだろうか。
そのためのアプローチも実にさまざまな方法を試行した。そして文章や絵に、他の表現手法に変換するというのが一番有効な方法であることが経験的にわかってきた。
これは一種の諦めでもある。どうせ全てを覚えていることなんて出来ないのだ、それならばその「おもいで」や「おもい」のダイジェストを構築してしまおうという手法は、一見して効果的であり、実際いままでの間、この手法で不都合が生じたことはなかった。
 
しかし、それは忘れたくない事柄が「去り行くもの」に属しているからこそ可能であるものだった。そのことに最近気づいた。
相手が「去り行くもの」に属していない場合、メッセージダイジェストのようなものは不要であるどころか足枷となる危険性をはらんでいる。それはたとえば「委託開発先が何気なく送信したメールの内容に縛られ、とんでもない仕様を作り上げてくる」なんて事態を呼ぶ。表現は生々しいが、要は「人間関係は(システム仕様は)ナマモノであり、中途半端な解説は更に大きな混乱を招く可能性をはらんでいる」ということである。
 
そしてもう1つ。それは自分は自分が想像した以上におしゃべりであるという事実。自分というよりは自分の遺した「メッセージダイジェスト」か。とにかく自分なり自分のメッセージダイジェストなりは、人に向けて語りたがる。とても語りたがる。
その結果、語るべきでない人にまで物語を語り、伝えるべきでない人にまで思いを伝えたりする。時にはあらぬ勘違いまで生む。
 
メッセージダイジェストとならずメッセージそのもので、それが故に「おもいで」や「おもい」を込めることが可能で、しかしながら他人はあまりそのことに気づくことがない、そんな便利なものがあるのだろうか。
 
実は、僕は1つだけ知っている。ちゃんと覚えているための装置。こいつで自分のメッセージを切り取る。
残されたチャンスはたった一回だから、失敗しないようにしないと。